| 2012/01/16
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はやいもので睦まじき月も半ばを過ぎた。ようやく酒肴の節料理が底をつきのんべんだらりとした正月も終わったらしい。 年末以来の「柴又物語」も昭和五十年代に入るとリアリティが希薄になって少々興醒めの感があり慊くなってきた。あの頃から高度成長の物語(明るい昭和)が終わり分厚くも薄っぺらな中流中間層の時代がはじまったらしい。 寒冷ではあるが好天がつづいていたのでほとんど日課のごとく町はずれの里山ゲレンデや小一時間範囲の人口雪山に足を運んでいた。なぜか今年は無料招待券や五百円券の類がどこからか集まってくるからである。畳の水練のようなものだが定期的な外出はジョブ・ラーニングと聞かされて律儀に出かけて行くのである。 どこに出しても恥ずかしい履歴書も使い道のないまま溜まっている。今週はまた職安訪問があるので体調管理(主に神経痛緩和)に新聞の健康記事をクリッピングしたりして床に転がって実践したりもする。もちろん効果などは期待もしていない。 昔の民宿客からスキー行の問い合わせなどもあったが、さすがに「福祉の人」と聞くとその気も失せるらしくいまだ訪問者はない。相変わらずの無能の人は最小限の資源を浪費しながらその日暮らしの刹那に生きるのみである。 大きな物語に興味を失ったので時事的な戯言を書く気はなくなった。災害ユートピアの賞味期限は十月ほどで切れたのだろう。 この国は維新、敗戦以来のパラダイムチェンジに失敗して金融経済のみのさみしい国柄に落ちつこうとしている。維新(革命)幻想のときは過ぎ去った。 震災前とは意匠を異にしても、また災後の日常もまた終わりなきものに近づいているのかも知れない。そんなわけでブログの更新は気まぐれになる。 時代に取り残されていく実感は貴重である。その行きつくどん底にローズハウス林荘がある。 中村文則『王国』は『掏摸』の姉妹編だが初出の衝撃はない。小粒な青豆(1Q84)みたいでやはり慊い。まだ途中だが國分功一郎『暇と退屈の倫理学』が炬燵読書でおろしろい。
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